感情のままにしか、書けない

のだ。
私はたぶん、感情のままにしか文章を打つことができない。


もちろん「文章を打つ」という行為だけはいつだってできる。なんならわたしの仕事の大半がそれだ。

企画書を打って、企画にGOサインが出たら文章を打って、他人の文章を校正しながら自分の文章を校正してもらって、赤が入った部分を修正してから「打った文章」を公開する――というのが生業だ。元来「書く」という行為が好きだから、それ自体は決して苦ではない。趣味のひとつが仕事の一部になってしまったことに昔は絶望したけれど、仕事を成り立たせるために趣味のひとつをほとんど放棄しかけている今、もはやルーティンワークのように「文章を打つ」という行為をこなしている。

行為自体はべつに悪いことじゃない、と思う。なんせコンテンツマーケティングというものが叫ばれる時代だ。どこに行っても文章につきまとうものは「マーケティング」というカタカナだ。どういった人々に届けるべきか、その情報が世界にとってどのように有益なのかを考えずに打った文章は、社会ではみるみるうちに葬られる。当然だと思う。自分の感情を吐き散らかしただけの文章は、誰の得にもならないし、ただの自己満足でしかないのだから。

でも、「マーケティング」にがんじがらめにされながら出来た文章って、何が良いんだ?

 

わたしは、その人の「感情」が見てとれる文章が大好きだ。その人がどういう想いでこの文章を打ったのか、どういう想いでこの内容を届けたいと思ったのか、この文章を書くまでにどれほどの「感情起伏の蓄え」があったのかを知りたい。だって、感情が透けて見える文章には嘘がないのだ。価値観、人生観、その人が生きてきた歴史、そのすべてが目に見えるから。

一人称の文章でなくとも同じこと。誰かをインタビューした記事であったとしても、インタビュアーがインタビュイーにどれほど真摯に向き合ったのか、インタビュイーの生き様をどれほどまで深堀りしようと試みたのか、そして、きらきらとした感情の原石を掴んだ瞬間にどのようにインタビュアーの心が動いたのか、そのひとつひとつは必ず文章から読み取ることができるものだと思っている。文章というものは、どう足掻いても「共通言語」でしかない。

共通言語なのに「感情」を読み取ることができない文章は、ほんとうに申し訳ないことだけど、時間を無駄にして生み出されたものだとしか思えない。これを書いた人は何がしたくて時間を費やしたんだろう、と首を傾げてしまう。私は「モテたい私が実践するべき4つのこと」を知りたいんじゃない、「実際にモテているあなたがしていること」を知りたいのだ。文章を打ったあなたの知識をひけらかすんじゃなし、あなたがなぜその考えに行き着いたのか、どういう人生を生きてきたのか、つまりあなたの深い部分を見せてほしいのだ。モテない私がモテるあなたを模倣するために。

 

インフルエンサーマーケティングが叫ばれる時代、すなわち、共感が肝だと叫ばれている時代に、私たちは生きている。インターネットの発達により「ほしい情報」がてんでばらばらに散らばっている今、私たちは「私個人に真摯に向き合ってくれるインフルエンサー」を欲している。彼らは自分を偽ることなく、感情のままに、私たちに何かを叫んでくれるから。

有益、無益、そんなものは正直どうだっていい。文章が溢れ返っているこの世界だからこそ、私たちは「文章」に滲む「あなた自身」がほしいのだ。無名だってやり過ごせるインターネットだからこそ、私はあなたを知りたい。あなたのことを教えてほしい。顔も名前も秘匿で生きられるインターネットだからこそ、信じられる「誰か」がほしい!

 

そう、私は今さっき「素敵な文章」を読んだというだけで、こんなにも自分の感情を垂れ流しにする文章を打っている。「素敵な文章」には、人を自然と動かす力があるのかもしれない。でも世の中にあふれている「素敵な文章」の大半は、つまらない文章が蔓延るインターネットにひっそりと投げ出されて、誰にも気付かれないまま沈んでいくのが常だ。
私は、ほんとうに、悔しくて悔しくて、仕方がない。

今さっき心を揺さぶられた「素敵な文章」を紹介したいのだけど、文章を生み出した彼女がそれを望まなかったから、誰にも教えぬまま今日を終える。

非凡だということ

 エッセイなどというものは、非凡な人が書くものであって、私なんぞが書くものじゃないよな、と思った。著名人が書くからエッセイになるんだろうなと思いつつ、キーボードをぽちぽちと打っている私は、やっぱりどこにでもいる凡人だ。

 得意なことはそこそこあったはずなのだけど、私よりもそれを得意な人が現れてしまったから、「○○が得意です」とは名乗れなくなってしまった。たとえば、絵を描くことだったりとか、文章を書くことだったりとか、お菓子を作ることだったりとか。いつかの友人が個展を開いたと聞いて、羨ましいけど私にはなれっこないな、と思ってしまった。

 でも、「生まれ持っての才能と情熱、そして血のにじむような努力がなければ”○○が得意です”と名乗ることはゆるされない」という思想の私からすれば、平凡という言葉に抗っている人は、なんとなく不憫に見える。

 自分が平凡だって受け入れたほうが、たぶんずっと楽に生きられるんだよな。何者かになりたいと願ったって、私以外の誰かになれるわけではないのだし。いろんな雑誌でいろんな著名人が「私は私」って言うけど、本当にその通りなんだよな、きっと。
 私は平凡で、おとなしくて、でもちょっと歪で、美人でもなければ絶望的なブスでもない、タートルネックとスキニーパンツが好きな女。あいみょんが好きと言ったら「学生みたい」と返されたけど、ちょっと背伸びしてジャズを聴くような年齢でもない。美術館が好き、小説が好き、エッセイが好き、漫画が好き、音楽が好き。学生が聴くような音楽が好き。こどもが観るようなアニメも好き。ちょっと背伸びした雑誌が好き、ひとりでこうして文章を打っている時間が好き、会社ではルイボスティーを飲んでいるけど本当は梅昆布茶が好き。クソ真面目だねとかプライドが高そうとか生きるの辛そうとか散々言われるけど、実際はそのどれもが外面だよ、私を知ったような顔で話しかけてくる人間全員クソくらえ。

 人間は矛盾をはらんでいる生き物なので、私はやっぱり自分に才能があるとも信じてしまうのだけど、それはそれ、これはこれだ。やっぱり非凡な人には憧れてしまうよな。私が凡人だからだと思うけど。自分のことをセンスが良い人間だと思ってしまったら、そこで私の感性はおわりなのだ。

酒飲みぞ

自他ともに認める「酒飲み」になった。

そもそも同僚がみんな「酒飲み」なので、毎晩いたるところで飲み会がおこなわれている。断ろうと思えば断れる飲み会ばかりなのだけど(そしてそれが弊社のいいところなのだけど)、誘われると嬉しくなるので、お金もないのについつい行ってしまう。おしゃれなバーどころか居酒屋でもない、さびれた中華料理屋がわたしたちの巣。うまいラーメンが500円未満で食べられて、鮮度のいい生ビールが300円未満で飲めて、台湾人の店員がそっけなく対応してくれる、そんな店がわたしたちの巣である。弊社の愚痴を言うことはほとんどない。本当にどうでもいい話ばかりで盛り上がり、23時を過ぎればお開きになるような、わりかし健全な飲み会ばかりが開かれる。たまにゲス話大会になることもあるけど。

こういうのに慣れてしまうと、久々に東京に出たときにびっくりする。先日ビアパブに行ったら、隣の席では女子大生と男性が話していた。女子大生はまったくビールに詳しくなくて、それどころかあまり得意でもないらしいのに、それに気付かぬ男性はずっとビールのうんちくを語り続けていた。そんなことあるの、と頭がくらくらした。

わたしはこんなふうに酒を飲みたくない。酒は道具だと言うひともいるけれど、わたしは酒が主役の飲み会がすきだ。だからビアパブや酒フェスに足を運ぶのに、まあなんと、なんとまあ。知識をひけらかすためだけの飲み会なんて、どちらかが不幸になるだけだ。お酒はみんなが幸せになるための飲み物なのに。

 

お酒が飲めないひととごはんに行くときは、絶対に酒を飲まないようにしている。でもお酒が飲めるひととごはんに行くときは、絶対にお酒がおいしい店を選びたいとも思っている。そういうときはできればわたしも行ったことのない店がいい。あんまり知識をひけらかしたくないのもあるけど、純粋に、おいしい酒をあなたと堪能したいので。

秘密主義

今、わたしは23歳だ。

特に理由もないのだけれど、ちゃんとした大人になりたい、と思うことが増えた。誰かに何かを言われたわけではないのに、キャンメイクのマシュマロパウダーをポーチから出すのはためらわれるようになったし、大学生の頃に使っていたレブロンのマットリップは部屋の隅っこに放置するようになった。食器類にまったく興味なんてなかったのに、急にウツワに興味を持ち始めて、いろいろと買い漁るようになった。邦ロックばかり聴いていた学生時代を恥じるかのように、ニュージャズなんかに手を出し始めているし、10000円を超える服にはめったなことで興味を持たなかったのに、アナトミカのマリリンが欲しすぎて困っている。

ちゃんとした大人になろうとすると、どうやら趣味が変わっていくものらしい。少なくともわたしはそうだ。過去にすきだった人やものを懐かしく思う夜はあるけれど、それを狂おしいほどすきだった頃に戻りたいとは思えないのだ。すきだった人は今や単なる男友達だし、ライブや舞台に遠征できるほどの気力や体力はもう無い。それに何より、かつてわたしの人生を明るくしてくれたそれらは、今のわたしにとって必要なものではない、ということを知っている。過去は過去で、今は今だ。

 

だから、わたしは「昔ばなし」が苦手だ。

過去のわたしをよく知る人となら大丈夫。過去の話で盛り上がることができるのだから、そこに苦手も何もあったもんじゃない。あんなことあったよね、あの時の○○はすごく格好良かったよね、そういう話で何時間も花を咲かせられる自信ならある。「昔ばなし」で盛り上がるその瞬間は、過去のわたしが今のわたしに憑依しているから、当時抱いていたときめきを打ち明けることだってできる。過去を知っている友人との「昔ばなし」は、わたしにとってすごく大切なものだ。

でも、今のわたししか知らない人に、「昔ばなし」をするのはとてつもなく気苦労なことに思えてならない。今のわたしと過去のわたしは乖離しすぎているんじゃないか、もしかしたら幻滅されるんじゃないかという不安が、漠然とそこにあるのである。ちょっと考えてみてほしい。ジョン・コルトレーンを流しながらミネストローネを煮込んでいるわたしと、先行上映で号泣しながら推しの名前を噛み殺しているわたしとは、そりゃあ乖離しているだろうよ。ブルータスを読みながらジャスミンティーを飲むわたしと、アニメディアを読みながらリプトンのレモンティーを飲んでいたわたしは同一人物なんだよなんて、一体誰が言えるだろうか。もちろん、二次元がすきだった過去のわたしも、邦ロックや若手俳優やアイドルがすきだった過去のわたしも、だいすきで愛しくてかけがえのない自分自身だ。でも、今のわたししか知らない人が過去のわたしを受け入れてくれるかどうかはわからない。理解してもらえないんじゃないかな、と思ってしまう。

だって、今のわたししか知らない人は、ずっと昔のわたしを知る由がないのだ。わたしは遠い地方まで出てきてしまったので、昔のわたしを知っている人間は、わたししかいないのである。わたしが昔を語らなければ、わたしは「ちゃんとした大人になろうとしているわたし」のままでいられるのだ。レディになるために背伸びをして、日々のちょっとした贅沢を楽しんでいるような、どこにでもいるごく普通の女でいられる。なんなら過去のねつ造だって可能だ。わたしのイメージを、わたしだけで作り上げることが、いとも簡単にできてしまうのである。

 

「昔ばなし」をふいに振られたとき、わたしが固まってしまうのは、「嘘をつくべきか真実を話すべきか」で迷ってしまうからだ。なんだかんだ言いつつも、過去のわたしより今のわたしのほうがよっぽどすき。せっかく積み上げてきたイメージを崩してしまいたくもないし、だからといって、信頼している人に嘘をつきたいわけでもない。だから、ちょっと困った顔をしてうつむきながら、意味ありげにグラスを揺らしてみせる。相手が「言いたくなかったら言わなくてもいいんだけどさ」と言ってくれるのを、いつだって待つ。

そうしているうちに「秘密主義だよね」って言われるようになってしまったけど、まあ、それもそれでアリなんじゃないかなと思っている。付き合っている人に「なんで話そうとしないの」と訊かれたとき、「話しても君とわたしにいいことがないから」って類のことを言ったのだけど、まさにそんな感じ。

過去は過去で、今は今。そうやって生きていけたらいいのに。